July 13, 2009

相場に振り回された人生

これも さる高齢者向け雑誌に投稿したもの。


相場に振り回された わが職業史
                
1956年 大學を卒業し あまり迷うことも無く 関西の都市銀行 S銀行へ就職した。神戸支店へ配属され 2年ほど通常の預金業務など 銀行の仕事を習った後 外国係を拝命した。3年ほど輸出入の外国為替の仕事をし それから 大阪本店の経済調査部へ そして 1962年 ロンドン支店へ転勤になった。1960年代は まだ日本の高度成長前夜で ロンドンに於ける日本の銀行の地位は あまり高くなく 当時イギリスでトップ銀行だった バークレイズ銀行などは 「当行はインドの銀行との取引の方を日本の銀行より重要視している」
などと 偉そうに言う時代であった。今の日本の銀行のロンドン支店やニュウヨーク支店は 何百人というスタッフを抱えて 仕事をしているが 60年代では 10名ほどの日本人と20名ほどの イギリス人を雇っていて 総勢30名ほどの こじんまりした支店であった。その業務も 日本の商社への金融の仕事と 米ソ対立の国際情勢下にあってロンドンで成立した 米ドル建てのいわゆる ユーロドル預金市場から ドル資金の取り入れそれを内地へ供給する仕事 そしてロンドンの外国為替市場で 日本の本店から注文してくる 米ドル 英ポンド
ドイツマルクなどの 外国為替取引を市場に出す仕事など今から思えば 単純な仕事をしていた。
それでも市場が荒れてくると なかなか本店が指示してくる相場で成約できず苦労した。
70年代の変動相場制になっていなかったが 英ポンドの切り下げなどがあり フナンシアルタイムズや
エコノミストなどの雑誌を 日曜日をつぶして読み為替ブローカーなどからの情報を書き加えて 内地の本店へ為替情報として流すなど 相場に振り回される毎日であった。
1968年に6年のロンドン勤務を終え 内地へかえった。ところが 1970年末にまたロンドンへ行けと
言う話が舞い込んだ。
60年代の終わり頃から国際金融市場で中長期のローン貸し出しをすると言う流れが出来 日本の銀行もそれに参加したいと希望していた。それに対して日本の大蔵省が 一度に認可するのはどうかと思い 日本の都市銀行と証券会社に 2行の合弁銀行を作って 参加せよと言ってきた。
そこで S銀行 F銀行 M銀行 T銀行 D証券 N証券Y証券の 4行3証券が 日本国際投資銀行なるものをロンドンに設立することになり 私は それに出向を命ぜられたのである。
仕事は 前のロンドン支店の時がほぼ同じような ドル預金の取り入れや それの外国為替取引などで
あまり変わらなかったが激しく競争をしていた 都市銀行の人たちと一緒に仕事をする事になり それなりに面白かった。その銀行に2年ほどいて それから
S銀行のロンドン支店へ戻り2年 前回の6年と合計すると ロンドンに10年勤務したことになる。
ぼつぼつ内地へ帰るのかなと思っていたら 銀行が親しくしていたD証券の アムステルダムの現地法人が 銀行業務をするにあたって 銀行業務に精通しているスタッフを一人雇えと オランダの中央銀行から要求され その要員として アムステルダムへ出向赴任する事になった。従ってやる仕事の内容はあまり変わらなかったが 証券会社の外国の拠点がどんな仕事をしているかを 観察することが出来 大変為になった。
ロンドンでも 美術館通いを随分楽しんだが アムステルダムでも レンブラント ゴッホ フェルメールなどの オランダ画家の絵を楽しく鑑賞する事が出来た。
2年アムステルダムに勤務し 東京の国際本部へ復帰した。
S銀行では 役員になれなかった人は 45歳くらいで 第2の職場へ出る事になっていたので そろそろかなと思っていたら グループの中堅建設会社のS建設へ移籍の話がやってきた。
S建設では 外国の工事がぼつぼつあって 工事代金を外貨で受領する事が多く 為替レートの変動で 決算に大きな影響が出る。これをどうすれば良いか 為替の専門家が必要だとの話で 白羽の矢がたったとの事であった。もう少し国際金融の仕事をしたいとは思っていたが 銀行の意向がそうであれば已むを得ないと言う事で 移籍を承諾した。銀行に25年 そしてS建設に20年 65歳までお世話になった。
S建設では 銀行とは違った色々な事があったが 銀行で習得した 外国為替の知識考え方は 大いに役にたった。銀行とは違い 会社の経営陣の一人として
経営にタッチする事が出来 銀行時代とはまた別の
面白さがあった。S建設での経験については いくらでも書く事があるが 紙数も尽きたので この辺で筆を置く事にしたい。

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July 12, 2009

日本語が亡びる時

 ある 高齢者向け雑誌の例会で 水村美苗さんの ベストセラーの
報告をした。 その時のレジメを ここに 参考までに アップしたい。
なにぶん長文なので ご興味の無い方は パスしてください。


日本語が亡びるとき」―英語の世紀の中でー   1
      水村美苗 著
        目次
 第一章――アイオワの青い空の下で(自分たちの言葉)で書く人々
 第二章 ―パリでの話
 第三章 ―地球のあちこちで(外の言葉)で書いていた人々
 第四章 ―日本語という(国語)の誕生
 第五章 ―日本近代文学の奇跡
 第六章 ―インターネット時代の英語と(国語)
第七章 ―英語教育と日本語教育

著者は東京に生まれたが 12歳のとき 父親の仕事の都合で 家族と共に
ニューヨークへ移り住んだ。 そこでは非英語圏から来た子供たちのクラスへ入れられたり
英語にじめないので 家では 改造社版「現代日本文学全集」を読んで小女時代を暮らした。
しかし イエール大學および大学院では 米国人を見返す気持ちもあって フランス文学を専攻 した。三カ国語に堪能な バイリンガルならぬトライリンガルの才女である。
卒業後は プリンストン大学で 日本近代文学を教えた。
しかしやがて日本に帰ってきて 小説家として仕事をし まず 夏目漱石の小説「明暗」
の続編「続明暗」(一九九〇年 文部大臣新人賞)「私小説from left to right」一九九五年 野間文芸新人賞){本格小説}(二〇〇二年 読売文学賞)などの小説を発表している。

第一章  アイオワの青い空の下で(自分たちの言葉)で書く人々

アイオワ大學主催の 「作家たちとの国際交流」(International Writing
Program)への参加。
世界の あちこちから 集まった 作家 詩人たちとの 交流であったが
その人たちが 「自分たちの言葉」で ものを書いているのをみて 
英語が「普遍語」となりつつある意味を 改めて考えた。

英語圏を除いたすべての言語圏において {母語}と英語という 二つの言葉を必要とする
機会が増えるという事。中国語 スペイン語 アラビヤ語が 将来 今よりも重要になる事があっても 英語をさしおいて 普遍語になる事はありそうにない。
(日本人で中国語を学ぶ人は増えているが インド人と 中国語で 仕事をする事は無い)
 
第二章  パリでの話

一九九八年 パリで開かれるシンポジウムで 小説家として何か話さないかという誘いがあり
「日本近代文学と時間」という題で フランス語で講演をした。
フランス語とは 一〇六六年 フランスのノルマンディ公が イギリスを征服して以来 三〇〇年にわたり イギリスの宮廷で使われ 一七世紀に ルイ一四世の宮廷の栄光のもと

ヨーロッパ全土に広く流通するようになった言葉である。しかし今や 普遍語としての英語の
台頭によって フランス語は 気の毒なことに 日本語と同じところまで凋落してしまった。
フランス人たちに その気の毒な現実に直面してもらおうと 次の様な話をした。
                                        2

一八六八年の明治維新以後 日本人はヨーロッパの文学を 初めは原文で そしてあと沢山の翻訳で読む様になり 読む事を通じて 西洋人と同じ 時間を生きることになった。
しかし 一方 日本には日本という 特殊な時間がながれており 日本人は この二つの時間を同時に生きるようになった。普遍と特殊の非対称な関係を生きる事になった。

英語 フランス語 ドイツ語などヨーロッパの国民文学を 翻訳で読んだ日本の作家は
「国語」というものがある事に気が付いて 日本の近代文学を書き始め 世界における
一つの主要文学と称される 日本近代文学を作り上げた。
国民文学としての 日本近代文学が花開いたのです。

そして アメリカと戦争したおかげで 日本の事を研究するためアメリカの情報局に雇われた
極めて頭脳優秀な人たち サイデステッカーや ドナルドキーンのような人たちが
日本語を徹底的に学ばされた。彼らが後で 日本文学の研究者となり 日本文学の翻訳者となった。彼らの翻訳が無ければ 川端康成始め ノーベル文学賞を受賞する日本人小説家は
出なかったであろう。しかし 彼らに興味を抱かせた 素晴らしい 日本近代文学があったと言う事がそれを可能にしたのである。

後で述べるが 水森さんが言いたいのは この様な日本近代文学を 今の日本の教育は大切にしていない。「書き言葉としての日本語」が 滅びるような方向へ行っている。これは勿体ない事であると彼女は言いたいのである。

今 世界で一番権威のある百科事典「ブリタニカ」の「日本文学」の項目に

「その質と量において 日本文学はもっとも主要な文学の一つであり その発展の仕方こそ違ったが 歴史の長さ 豊かさ 量の多さにおいては 英文学に匹敵する。現存する作品は 七世紀から現在までに至る文学の伝統によって成り立ち この間 文学作品が書かれなかった「暗黒の時代」は 一度もない」―――

これは 延々一万六千語近くを占める項目である。
(ちなみにモンゴル文学もリトアニア文学も五〇〇語くらいしかない)

たしかなのは 日本語を強制的に学ばされた人たちが 翻訳してみたくなる近代文学が日本にあったと言うことであり  さらにたしかなのは そう思って世界を見回せば 日本の様に はやばやと あれだけの規模の近代文学をもっていた国は 非西洋のなかでは 見あたらないと言うことである。―――そのような日本近代文学が存在し得たこと自体 奇跡だといえる。

第三章  地球のあちこちで{外の言葉}で書いていた人々

普遍語{universal language}
現地語{local language}

国語{national language}
母語{mother tongue}
二重言語者
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人類が文字を発見してから 6000年。その間人類は ほとんどの場合 自分が話す言葉で そのまま 読み書きをしていたわけではない。{外の言葉}そのあたり一帯を覆う 古くからある 偉大な文明の言葉で 読み書きをしてきた。 それが{普遍語}である。

二重言語者とは 自分の話言葉とはちがう外国語を読める人を指す。

そして 二重言語者によって 現地語でしかなかった言葉が 翻訳を通じで{普遍語}と同じレベルで機能するようになったものを{国語}という。
そして その言葉が国民国家の誕生という歴史と絡み合い 国民国家の国民の言葉=国語となる。
ヨーロッパでは 中世いらいラテン語とギリシャ語が{普遍語}で 英語 ドイツ語 フランス語という
現地語が やがて それぞれ国語になった。

ドイツの宗教改革をした ルターがギリシャとから聖書をドイツ語に翻訳し グーテンベルグの印刷機の発明によって ドイツ語という 国語が成立したのが良い例である。

この普遍語から 国語への動きについて 著者は この三章で縷々説明しており それは
大変興味あるところであるが 先へいそぐ。

第四章 日本語という{国語}の誕生

明治維新で 日本が西洋の文物を取り入れ {国語}が成立したのは

1. 明治維新以前の日本の{書き言葉}が 漢文圏のなかの{現地語}でしかなかったにもかかわらず 日本人の文学生活のなかで 高い位置を占め 成熟していたこと
2. 明治維新以前の日本には 木版の印刷技術がすでに発達し その成熟した日本の{書き言葉}が 広く流通していたこと。
3さらに 日本が西洋列強の植民地にならずにすんだこと。

この三っの条件があった。 

明治維新直後 にほんが独立国家として 続けられるためには 西洋語という新たに登場した{普遍語}に蓄積された 知識や技術や叡智をいち早く日本の言葉に置き換えるとことが 絶対に必要であった。
 その翻訳の おかげで 日本の{国語}が成立した。

第五章 日本近代文学の奇跡

日本に日本近代文学が存在するようになった事に 大きな影響を持ったのは 日本に日本語で学問をすることが出来る 大學が存在する様になった事を忘れるわけにはいかない。
(もし日本が あのときアメリカの植民地になっていたら 英語で授業する大學が設立され
植民地政府に選抜された 優秀な人材や裕福な家庭の子弟は アメリカの大學に留学することになったであろう)

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もちろん 当時は 日本の大學は 西洋の大學と同じような意味での学問の府となったのではない。それは 何よりもます 大きな翻訳機関 そして翻訳者養成機関として機能するようになったのである。
明治から第二次世界大戦前までは まだ西洋の主要な3つの{国語}が普遍語として流通し 日本の旧制高校や大学の 主な役割は 英語 ドイツ語 フランス語の3大国語を教え  二重言語者を翻訳者として育てることであった。

そして重要なことは この様な非西洋の二重言語者である日本人が 西洋語という{普遍語}を良く読みながらも{普遍語}では書かず 日本語とう{国語}で書いたと言うごとである。

そして かれらは翻訳を通じて新しい自分たちの言葉としての日本語を生んでいった。そしてその新しい日本語こそが{国語}-同時代の世界の人々と同じ認識を共有して読み書きする{世界性}を持った{国語}へとなっていった。

そして そこから日本の近代文学が誕生し 発達した。そしてその近代日本文学は 西洋人が読んでも 翻訳したいと感じる世界性をもった文学になったのである。

第六章 インターネット時代の英語と{国語}

すでに学問の世界では 英語で論文を発表する事が 世界の学会で認められる必要条件になっている。あのフランス 花のパリにあるパスツール研究所でさえ 英語で論文を発表する様になったという事実は 英語が世界の普遍語になってしまったと言う事を示している。

そのように 数学を中心とした自然科学では すでに英語に一極化しているが その様な動きは自然科学を越え 社会科学 人文科学へと 確実に学問のなかで 広がっている。それが学問の外の領域に 広がらない理由はどこにもない。

そこへ インターネットという技術がうまれ 発達している。
 叡智を求める人々が 普遍語にひかれて 国語を読まなくなり 普遍語を読もうとする様に
なっていくのではないか。

広い意味で 文学が終わることはありえない。しかし英語が普遍語になったことによって 英語以外の 国語は{文学の終わり}を迎える可能性が出てきた。
叡智を求める人が 国語で書かれたテキストを真剣に読まなくなる可能性が出てきた。
それに 日本の学者たちは 今英語でそのまま書くようになりつつある。自然科学だけでなく 人文科学でも 少しずつそうなりつつある。

{国民文学}が{現地語文学}なりはてる可能性が出てきた。

明治の中頃まで 漢文が普遍語的な地位を占めていたのに 今や漢文が読める人が 日本には
殆ど居なくなっている。漢文文学は 日本では亡びている。

優れた文学が近代日本で生まれるのを可能にした 歴史的条件が目に見えて崩れつつあり 学問にたずさわる二重言語者が 普遍語=英語で書き {読まれるべき言葉}の連鎖に入る可能性が出てきてしまっている。
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第七章  英語教育と日本語教育

日本語が「亡びる」運命を避けるために何をすべきか。

凡庸きわまりないが 学校教育というものがある。

その学校教育とはなによりもまず 英語教育である。英語の世紀に入った今 どのような国語教育にすべきかについては まずはどのような英語教育にすべきかに かかっている。

英語の世紀に入ったと言うことは 国益という観点から見れば すべての非英語圏の国家が優れて英語ができる人材を 十分な数 育てなければならなくたった事を意味する。

1. 国語を英語にしてしまうこと
2. 国民の全員がバイリンガルになるのを目指す事
3. 国民の一部が 優れたバイリンガルになるのを目指す事
 
シンガポール フィリッピン インド アフリカのいくらかの国は 英語を「公用語」の一つとして採用している様だが 日本ではありえない。これらの国では 「普遍語」と「現地語」の2重言語状況を生きざるをえない国である。

日本では 2を選ぶ必然性は全くない。もし日本が2を選んだら 日本が必要とする 優れて英語が出来る人材など
十分な数 絶対に育たない。

日本の政府の考えは?

文部科学省の見識のなさ。小学校から英語教育を導入することを決定した背後には
学校教育を通じて多くの人が英語ができる様になればなるほどいいと言う 考えがある。
しかし その考えを完全に否定しなければならない。
今 日本が必要としている人材は 世界に向かって 一人の日本人として 英語で意味のある発言が出来る人材である。外国人に道を訊かれて英語で答えられる人材などではない。

国民の一部を優れたバイリンガルに育てるという方針を選ぶ以外に 英語の世紀の中での
「言語的孤立」を避ける道はない。
それは 第2次大戦後からつい最近まで 日本の教育が避けてきたこと 一番倫理的に正しくないと思ってきた道を選ぶということである。
そこまで思い切った事をせねば これから日本に必要な数の優れたバイリンガルは育たない。
そして そうしなければ いつか 日本語は「亡びる」書き言葉=国語という日本語が
亡びる。

ゆとり教育からの脱却を新学習指導要領でも 選択を減らし 必修を多くした 中学3年生の授業の配分で 英語 数学 社会 理科が それぞれ 週4時間になっているのに 国語は
週3時間にとどまっているという 文部科学省の考えでは 読み言葉としての 日本語が
いかに粗末に扱っているかを見れば その日本語が亡びる恐れが はっきりしているのではないか。

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July 11, 2009

歌を歌う楽しみ


元の勤務先の OB広報誌に 喜寿の感慨を述べる投稿を
依頼されて 書いた文章を ここにアップしたい。

歌を歌う楽しみ

1945年 敗戦の年 中学1年だった私は ラジオから流れてくる流行歌を楽しく聴き その歌詞を紙に書き付け 楽しく歌った。

楽譜が無くても 耳で覚えたメロディは 今でもきちんと歌える。

高校2年になった時 広島県の瀬戸内海沿岸の忠海高校で 戦後の学校改革により 男女共学になった。 それまでは 男女は汽車通学でも同じ車両に乗ってはいけないなどと言われていたので 映画「青い山脈」のような雰囲気の学校生活になった。そこへ東京の音楽学校を卒業したばかりの 若い美しい女性の先生が赴任してきて 音楽の担当になった。青い山脈の主題歌のB面に「恋いのアマリリス」という歌があって その一節に 「姉と呼びたき師の君も 悩みたもうか恋いの夜は」という歌詞があったが そのような感じで その先生は沢山の青春の歌を授業で教えたくれた。合唱をするほどの事は無かったが 斉唱だけでも結構たのしかった。「折らずにおいてきた 谷間の小百合 折れば良かった遠慮がすぎた」と言う歌もあって まさにその当時の雰囲気を思い出させる。

その当時はまだ受験についても のんびりした時代で 高校2年の終わる頃にやっと そろそろ受験勉強を始めなければと思うような時代であった。

大學に入ってからは 当時の学生運動で盛んに歌われた「原爆を許すまじ」

だとか「若者よ」と言った歌を コンパやデモ行進などで歌ったくらいで 歌にあまり深入りしなかった。大學にも合唱クラブの様なものがあって歌っていた人たちが居た事を後になって知って 今では少し残念な思いをしている。

銀行に入って神戸支店に配属された。女子行員の誰かから 「銀行外で混声合唱をしているから 参加しないか とても楽しいわよ」と誘われたが当時の居残りの多い銀行生活では とても週に一回の練習に参加するような雰囲気では無かった。

 1962年にロンドン支店に転勤になったが 当時はビートルズの最盛期でその歌が流れていたが あまり興味はなく ロンドンではアルバートホールでの クリスマスオラトリオを聴いてヨーロッパの合唱音楽の面白さに感心したくらいである。

1970年に2回目のロンドン勤務になったが ピアノ・バー的なものが

始まっていたが まだカラオケの本格的な展開はなかった・

1980年 住友建設へ入社した。四谷の本社の近辺には 沢山のスナックがあって カラオケ天国であった。会社のなかでも歌の好きな人がいて 誘い合って出かけてものである。また経理部や企画室の部単位で 幹部から若い人まで一緒に繰り出して 会費は給料の高い方が少し多めに出すという方式で

気楽に歌いに行った。当時 銀行から来ておられた 鈴木久五さんが上司で

彼は歌がお好きでよくご一緒した。まだ流しのギター弾きがいて 接待の時にそれを料亭の部屋へ呼んで歌を歌う事もあった。

と言うわけで 住友建設を退社する2000年まで 20年間の楽しみは

もっぱら歌 それもカラオケ一色の歌の時代であった。

さて これからは定年以後の合唱と歌おう会の話である。

今から15年ほど前 還暦を迎えた頃 町内会の回覧版に「地元で混声合唱団 あすなろを結成する」という話が載っていて それを見た家内が私に「あなたもそろそろ定年だから 定年後の楽しみにこれに参加しては」と勧めてくれた。

それまで会社と家を往復するだけで 地元の社会とは全く接触の無かったので

これは面白そうだと 参加した。混声合唱団なので 女性は地元の主婦たちで

彼女たちの話を聞くだけでも結構面白かった。本格的に楽譜を読む修練をしていなかったので 最初はすこし面食らったが 心配するほどの事もなく 

何とかついて行く事が出来た。そのうちに紹介する人があって 戦前から長い歴史のある「横濱オラトリオ協会合唱団」へ入れてもらった。これはキリスト教関係の宗教曲を専門にしている合唱団でかなり程度の高い団であったが 何とか面白く歌った。それから派生してバッハのマタイ受難曲を唱う会 或いは年に1回県立音楽堂で唱うメサイヤの会 最近では ボニージャックスのリード・テナーだった 大町正人さん主宰の「帆船日本丸男声合唱団」にも入っている。

合唱の世界というのは 狭いもので これだけ色々と団に入っていると あちこちで 知り合いの人がいて それだけでも交流の楽しさがある。

しかし70代後半になって 何時まで合唱を続けられるかなという心配もある。

その心配をはね除ける 何時まででも続けられそうな歌の世界がある。

それはここ数年 高齢者の中で盛んになっている いわゆる「歌おう会」である。昔の歌声喫茶と比較されることが多いが 性格は違うと思う。

開催される場所は 地区センターとか 生涯学習センターとか 公共施設が多い。ちょっと参加費が高いが 横濱ランドマークタワ16階のNHK文化センターにもある。公共施設を使っているのは参加費が200円くらいから1000円くらいまで 2時間ほどの時間を ピアノなどの伴奏で斉唱する。

参加者は8割が熟年女性 男性の参加者との違いは歴然としている。何故男性が少ないかは良く判らないが これが事実である。

皆さん 若かった頃に歌った歌謡曲 唱歌 抒情歌などを 多分その頃の思いでと共に楽しく歌っているのだと思う。気分だけでも 私も高校2年の頃に戻って歌うことが出来るので 楽しいのである。あまり他の人とメロディが違うと 少し迷惑にはなるが まあご愛敬である。

これは ここ数年だんだん更に盛んになり 会場が小さいと立ち見で歌わなければならないほどになる。

しかし とにかく 声を出して 大声で歌うのは 健康にもとても良いので

銀泉会員の皆さんも一度 顔を出して見られる事をおすすめしたい。

それに これに出るために 外出する事になるので それも健康保持に

役立つのではないかと思う。それに多数出席している女性たちの中に
好みの女性が居るかも知れない。最近の熟年女性は 60代でも
とても綺麗な女性が沢山いる。それを見るだけでも楽しみである。

私は今6カ所ほどの会に出ているが合唱が出来なくなっても こちらのほうは
 死ぬまで続けるつもりである。


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July 08, 2009

1月からの 俳句

俳句を作る気力が無くなったが メロウ倶楽部の 
Online俳壇だけは なんとか続けている。


1月の俳句

初雪や静かに白き葉牡丹に  
言うことなしこの快晴の三が日  
ひよどりの群れに冷たき寒の雨  
楽しきは合唱仲間初飲み会  
元旦の苑に鳥見の人集い  

2月の俳句

冬の空はれて良きことあるごとし  
冬寒きハドソン河のドラマかな  
鬼は外と叫んでギターかき鳴らす  
暖冬の庭に深紅のシクラメン  
山の端の白くかすかな冬の月  

3月の俳句

春一番海の青さに空の青  
鳥啼きて静かな苑や春浅し  
木立にも春の匂の里に居て  
桃咲きて人影はなし別世界  
花はくれんのふくらむ新芽うすみどり  

4月の俳句

春の雲光まぶしく空青く  
春の花姉と妹の花屋かな  
茎立ちし葉牡丹白く一列に 
百日紅まだ動き無く春の庭  
白き猫と佳人は庭に若緑 

5月の俳句

春惜しむ小雨の烟むる丘にいて  
湧水の流れ堰き止め春の草  
花ねぎ坊主白くひっそり苑のすみ  
花まだ若き猫もそのそば萩若葉  
時は今若葉明るき季節かな  

6月の俳句

老鴬の声の静かな浜辺かな  
山肌に花かんぞうの花咲きて  
黄緑の苗代白き鷺遊ぶ  
蛍狩り孫と楽しく夜の闇に  
白ワイングラスに満たし夏の宵  


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January 04, 2009

2009年 新年の 舞岡公園の鳥たち

今年の お正月は 毎日 快晴の日々が続き
気持ちの良い お正月でした。
近くの 舞岡公園へ 1日と3日の2回 バードウヲチングに
出かけました。

鳥を見るのを趣味としている人たちが 沢山 やってきて
望遠鏡と カメラを 鳥に向けて じっとしていました。

柿の木には 赤く熟した柿の実を 目白と ヒヨドリが
争って つついていました。1日には まだ つつく柿の実が
ありましたが 3日にまた 行ってみると もう 全部 食べ尽くされて
何にもありませんでした。

あとは 白せきれい かも 白い小鷺 田鴫 じょうびたき こじゅけい
などが 姿を現して 我々を喜ばせてくれました。

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October 12, 2008

今日は一日のんびりと。

今日は 連休の真ん中の日だが 勤めているわけではなく
特に予定がなかったので まず 庭の芝生を手入れして
夏の間に 植えていた草花を整理して 港南台の園芸店で
ガーデン シクラメンを7株買ってきて 植え付けた。
毎年 冬には ガーデン シクラメンと 葉ボタンを
植える事にしているが 今年は一寸 早かった。
一株 420円は 少し高い様な気もするが 時期が
早いので 当然ではある。

あとは ソファーに寝そべって 久しぶりに
ドビュシーのピアノ曲を聴いた。
オランダ アムステルダムに在住していたとき
運河のそばの レコード店で 手に入れた 7枚の
LP で Noel Lee というピアニストの演奏である。
日本に帰ってから その同じ演奏が CDになっていたので
それも買ってきた。
Noel Leeなるピアニストが いかなる人なのか よくわからない。
ものの本をみても 彼の経歴などは わからない。
でも そのLPで聴いた ドビュシーがすばらしかったので
以後 ドビュシーは 私の好きな作曲家になった。
それで このLPは 宝物である。

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October 08, 2008

9月の俳句と最近の読書

秋たけなわになりました。
ブログを書くのに ずいぶん さぼっています。

日記風に書くなら MIXIに書いた方が 見てくれる人もあり
その方が 面白いかなと思いながら それも出来ずにいます。

先日 元の勤務先の同期の人たちと 靖国神社のすぐそばの
元の勤務先の施設に 集まってサンドウィチと缶ビールで
昼のひとときを過ごし その後 神田の古書店街を冷やかしました。

新刊書の安売り店で 内田芳明「ウエーバー「古代ユダヤ教」の研究と
楠井敏明「大塚久雄論」を 2冊で 大枚 9940円払って 買いました。
内田氏の本は 冒頭の120ページばかりの 自伝的な 彼の研究史が
面白そうなので 買いました。読んでみると 期待通りの面白い話でした。

自分の本棚を眺めてみると 内田氏の「ウエーバーとマルクス」
「ウエーバー受容と文化のトポロギー」がありました。
両方とも積ん読でしたが 改めて読んでみようかという気になりました。

楠井氏は あまり知らない人ですが 大塚久雄は 京都大学に入学したとき
から 「欧州近代経済史序説」に感激し 彼の影響下に大學での勉強をした
懐かしい人なので その伝記的な この大塚久雄論を 読んでみようと
思いました。

75になっても このようなまあ堅い本を面白く読めるのは 幸せだと
思っています。

アロハシャツ着て晴れ舞台夏の宵  

大相撲大麻台風吹き荒れて  

雀来て庭で砂浴び秋の朝  

残暑厳しみなとみらいの盆踊り  

秋読書黛まどか俳句脳  

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September 01, 2008

春潮会をお休みにしました。

もう 30年近く参加していた 俳句結社 春潮会ですが
ちょっと 思うことがあって 毎月の句会の参加する事を
やめる事にしました。

俳句をやめるのではないのですが 句会に出る事が
何となく苦痛になってきました。
一つの理由は 私の参加していた 横浜春潮会の句会は
昔からのやりかたで 横浜の三渓園を吟行している人が
大部分で 三渓園での見たものを俳句にしています。
私は 港の見える丘で いつも作句していますので
自分の俳句はいつも孤立しているような気がしていました。

だから 句会に出るのが苦痛だったのでしょう。
しかし それだけではなく 最近 どうも詩こころが低下して
俳句を楽しく作ることが出来なくなっていたのも確かです。

だから しばらく句会に出るのをお休みにしました。

ただ 俳句は メロウクラブの ONLINE俳壇には
投句を続ける事のしていますので 完全に俳句を
やめるわけではありません。

ホームページも このブログも 改訂をさぼっていたので
このことを機会に また少し書き込みを 始めようかと
思っています。

ただ ここ一年ほどMIXIにも 参加しているので
日記的なものを MIXIにもうすこし書くかかどうか
考えてみたいと思います。

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3月からの俳句

3月
日時計を囲み桜の開花かな

湾岸橋波しずかなり春かすみ

ナツツバキ雀小枝に春の朝

陽炎に初恋の人影みえて

赤レンガ倉庫パンジー咲きほこり

病室の外陽炎いて友ねむる

 4月

海ながめ心しずかに春惜しむ

眼鏡ふき改めて見る若緑

フランス山みどりの新芽プラタナス

白き猫と佳人は庭に若緑

赤きベンツそbげに猫寝る春の午後

5月

梅雨いりはまだ少し先海あおし

碁敵とバス停であう初夏の朝

新緑のなか渋沢龍彦回顧展

バッハ聴きに雨の若葉の並木道

若葉風吹き抜け白きやまぼうし


有馬吟行

万緑を背に白煙の湯源泉

苔の上に白き花びらナツツバキ

鉢植えの姫沙羅白くはかなげに

若楓温泉禅寺れんじ窓

六甲の山を隠して梅雨の雲


7月

口笛を吹いて鳥の巣見上げけり

犬つれて我が想う人梅雨晴れ間

かき鳴らすギターの音色夏の宵

梅雨の夜神尾真由子のヴァイオリン

8月

阿久悠の記念番組夏の宵

その昔の想いし人と夏電話

心よせし少女の想いで夏の雲

夕立の雨粒八つ手の葉をゆらし

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March 22, 2008

1月と2月の俳句

30年近く俳句をやっているが 最近は詩心が失せて 良い俳句が出来なくなった。
何故だろうか?歌を歌う事に忙しく 俳句に分ける時間と心の余裕がなくなったのだ。

仕方がないが 俳句は続けて行きたいとは 思っている。何かきっかけがいるのだ。

1月の俳句

春を待つ庭の片隅梅古木

春を待つマストのかもめ氷川丸

春を待つ苑ににわかに雪の降る

にわか雪消えて春まつ苑となり

2月の俳句

山の村田の薄氷のなお薄く

受難曲の演奏会や春の雪

春一番明るき日差し吹き抜けて

春一番海の青さに空の青

風激し白き波頭や春の海

春激風のらは日当たりの良い場所に

観覧車青き港の春の空

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